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2007.02.09

新説「大化の改新」

 全くといっていいほど人気のない(手抜いているのバレバレだし(^^;)東海道散策ネタもちょっと飽きたので、寄り道の寄り道を。

 先週放映されていたNHKスペシャルをようやく録画鑑賞。

 要するに「蘇我氏は天皇家にとって逆賊ではなく、むしろ王宮を守護していた」「律令国家体制が成立したのは中大兄皇子らによる宮廷クーデターがきっかけではなく、その18年後の白村江の大敗北後である」という辺りがツボですが、なかなかに面白い話でした。例によって一杯やりながら見ていたので多少うろ覚えのところもありますが、備忘録的に内容を略記しておきます。

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・天皇を凌がんばかりの権勢を誇った逆賊蘇我氏を中大兄皇子&中臣鎌足が討ち、その後唐にならった律令国家を打ち立てたというのがこれまでの「大化の改新」の解釈。

・ところが、蘇我蝦夷・入鹿の邸宅があったとされる甘樫丘を掘ってみると、大邸宅ではなく倉庫や兵舎と見られる遺構が出てきた。

・また大化の改新を記した日本書紀も後世の加筆・修正があると見られている(注:これは新発見でもなんでもなく、随分前から言われていたと思いますが・・・)。

・甘樫丘は、蘇我氏ゆかりの石舞台や飛鳥寺を含め飛鳥の宮殿の防衛施設群の一つと見られる。

・蘇我氏は唐の倭国侵攻を恐れて飛鳥の防御を固めるとともに親唐政策を取っていた。

・蘇我氏を中大兄皇子&中臣鎌足が討ったのは、彼らが唐と対立していた百済を支援していたから。

・大化の改新後、直ちに律令国家体制が成立したわけではない。中大兄皇子は百済を支援して唐を刺激した割には唐の攻勢に対する防御を固めていた様子もなく、逆に多大な労力を割いて酒船石とか運河とかを作ったりしている。

・百済再興を期した倭軍は朝鮮に遠征したが、白村江の戦いで壊滅。

・中大兄皇子改め天智天皇はここでようやく国策を一新し、対唐防衛策を採るとともに国力を引き出すための一連の改革に着手。

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 古代史はいかんせん参考文献が少ない上に、その文献が往々にしていかがわしいため妄想の余地が物凄くでかく、また考古学同様何か物証が出てくると一発でこれまでの通説的解釈がぶっ飛んでしまうあたりに面白みがあります。

 先週末の日経によるとどうも今の日本史の教科書は古代史のみならずあちこち書き換えがあるようで(明石原人抹消とか、源頼朝の肖像画を掲載していないとか)、ぼやぼやしていると「お前は古い!!」と言われかねませんなあ・・・

P.S.

「白村江」は昔は「はくすきのえ」と読んでいたのだが、NHKでは「はくそんこう」と読んでいた。戦場は朝鮮だから韓国語読みしてもいいものだが、そこまではしないのは日本史上の出来事だからなのかな? 

 それはともかく分厚いだけではなく火攻めへの防御策を施した装甲を有し、しかも遠距離・近距離とも様々な攻撃兵器を備えた唐の巨大戦艦には驚いた。世の中にそんなもんがあるとは中大兄皇子は知らんかったのでしょうなぁ・・・

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