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2007.07.14

因幡街道を行く(1)

プロローグから続く。

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 平福の駅舎は「近畿の駅百選」に選ばれるほどご立派な形をしていますが無人駅。観光案内も満足にありません。

 平福は陣屋や鳥取藩本陣が置かれる因幡街道最大の宿場町として発展した。また佐用川の水運を利用して商業も発展。商人の町としても栄えました。しかし、長らく鉄道が敷設されなかったため次第に衰退。現在では商店もほとんど見かけないほど衰微していますが、それが却って宿場町の面影を留めるには幸いしたようです。

しその地位を失った。(1994年に漸く智頭急行が開通し平福駅が設置された。) 旧街道沿いにある連子窓と千本格子を持つ古い家並みと、水運で賑わった佐用川沿いの石垣上の土蔵群が、往時の面影を伝える。

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本陣跡

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 因幡街道沿いに残る鋳物師「瓜生原家」。享保年間に津山から移り住み、代々「吹屋」という屋号で昭和の初め頃まで鋳物業を営んでいたとのこと。

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 旧田住邸。江戸期を通じて大庄屋・代官を勤めた豪農。幼少期の宮本武蔵が当邸で養育されたとの言い伝えも。

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 こちらは江戸初期創業の「たつ乃屋醤油」。

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 平福を語る上で欠かせないのは川端風景。佐用川は因幡街道と並ぶ平福の繁栄の柱。土蔵や納屋から船へ出入りしやすいように様々な配慮がなされているのでしょう。

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 平福は短い期間ですが城下町だったことがあり、山城「利神城(りかんじょう)」の跡が残っています。戦国期に赤松一族から最北端の防備の任をうけた別所五郎左衛門敦範が築いたのが始まりだそうですが、慶長5年(1600)に姫路城の池田輝政の甥の池田由之が平福に入って城を大改修。利神城は3層の天守閣を誇り、あたかも雲を突くような威容から「雲突城」と呼ばれ、山麓には城主常御殿と武家屋敷、佐用川を外堀として、街道沿いに町人町を設けるなどして、整然たる区画の城下町が造られたようです(参考:兵庫県の城下町)。もっとも池田出羽守由之の造った3層の天守閣があまりに壮大であったため、(幕府に謀反の兆しありと睨まれるのを恐れたのか)姫路城主・池田輝政の命により取り壊されたとのこと。

(つづく)

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