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2007.11.21

太田金山城

 焼きそばを食った後の腹ごなしといってはなんですが、太田市内の史跡「太田金山城」へ足を延ばしてみました。

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 太田の街の北にそびえる金山。標高200mちょっとの小山にすぎませんが、なにせ関東平野のど真ん中にありますから非常に目立ちます。

 太田金山城は1469年(文明元年)に新田一族であった岩松家純によって築城されたましたが、1528年(享禄元年)に横瀬(のちに由良に改称)成繁が実権を掌握。由良氏はマイナーな大名ながら甲斐の武田氏・越後の上杉氏・相模の小田原北条氏といった強力な戦国大名と合従連衡を繰り返しながら堂々渡り合って金山城は難攻不落を誇っていましたが、1584年(天正12年)には成繁の子国繁が北条氏政の謀略を食らって金山城は北条氏の支配下に置かれました。

 その後1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い前田利家によって接収され廃城。秀吉の小田原征伐に対して北条氏は主力を小田原城近辺に集める策を採ったので、金山城は無血開城だった模様。

 金山城は金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。金山城の最大の特徴は石垣や石敷きが多用されている点。従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆されました。

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 堀切。堀切とは山の尾根筋を意図的に分断し、尾根伝いにやってくる敵の侵攻を防いだものです。金山城には西城から本丸まで4つの堀切が設けられていました。

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 土橋を渡りきったところに待ち構える関門。

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 物見台からは関東平野が一望できます。大して高い山ではありませんが、なにせ関東平野のど真ん中ですから物見には最適。

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 金山城の極めてユニークな点として、山城にも関わらず山頂近くに大規模な池があること。上写真は月の池。周囲を石垣でがっちり固められているので巨大な井戸のようにも見えます。

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 城の正面入り口に相当する大手虎口。見通しが利きにくいように通路は緩やかにカーブを描いていて、最後は土塁に突き当たります。

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 大手虎口の両脇は幾段もの曲輪で固められています。まるで河岸段丘のようですが。

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 こちらは日ノ池。大きさは月ノ池の倍ほどもあり、単なる貯水池ではなく祭儀的な意味合いもあったようです。

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 金山城は石垣が随分派手派手しく復元されている反面、建築物は武器庫ないし兵の詰め所と目される建物が復元されている程度。小屋のほうにはカマドが据えられていました。

 太田金山城に関しては太田市が市町村の手によるものとしては類例を見ないほど詳細な案内サイト「太田のシンボル金山」を作成しています。細かいことを知りたい方は是非ご参照あれ。

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