越前紀行(6)
(前回から続く)
丸岡城は柴田勝豊(勝家の甥)が1576年(天正4年)に北ノ庄城の支城として築城したもので、現存する天守の中では日本最古というのが通説です。しかし、建築史上の観点からすれば慶長期の特徴を多く見ることができるとして、1613年(慶長18年)に城主となった本多成重によって築造若しくは大改修されたとのによる姿ではないかとの有力説もあるようです。
もっとも丸岡城は福井地震で倒壊。1955年に倒壊した天守の廃材を用いて元通り修復されはしましたが、いったん倒壊した城が日本最古を名乗るというのは少々妙な気も。
丸岡城の際立った特徴として石瓦(地元産の笏谷石)を使用していることが上げられます。
福井地震で倒壊した時の鯱は石製。もともと鯱は木彫銅板張りだったのですが、戦時中の修理の際に銅板の入手難から石製に改められ、それが福井地震で破損したとのこと。
現在の鯱は元の木彫銅板張りに復されています。
天守は二重三階。入母屋造りの屋形に回縁高欄付きの望楼を乗せた形式です。ただその三階から回縁へ出にくかったり、高欄(手すり)が低すぎて回縁を歩いて回るのは危険だったりと回縁が装飾化している辺りが慶長年間の特徴で、これが上記有力説の根拠の一つになっているようです。
ちなみに屋根から釣り下がっている黒い輪は鳥避けなんでしょうか?
丸岡城は一時地震で倒壊したとはいえ、姫路城のようは華美華麗さとは対極にある古風な姿を留めた城として貴重なものです。
しかし丸岡に残っているのは天守だけでその周辺には櫓も土壁も堀も石垣もなく、ただただ天守だけがぽこっとある状態。堀や石垣はしっかり残っており、土壁や櫓も復元されたが天守だけがない城というのはごろころありますが、それらと比べると天守しかない城というのは軍事機能としては無意味に等しいせいか、あまり城らしい感じがしないというのが偽らざる実感です。
(続く)
| 固定リンク