東海道行脚11:藤川~有松
(東海道行脚10から続く)
藤川宿は品川宿から数えて37番目の宿場町。1601年(慶長6年)に藤川に伝馬朱印状が発給されて藤川宿が成立しましたが、発足当時の藤川宿は小さく、1648年(慶安元年)に隣村の市場村の68戸を現在地に移住させて宿場町の形が整ったとのこと。
藤川宿を出ると松並木がお出迎え。約1キロメートルの間にクロマツが90本ほど並んでいます。
7km弱で岡崎に。岡崎は言うまでもなく三河地方の中心都市であり、徳川氏ゆかりの五万石の城下町。しかし東海道本線が街の南外れを走ったことが災いして明治以降街の発展が遅れ、さらに「世界のトヨタ」の恩恵を十二分に受けることもなく、やや難しい立ち位置を強いられているようです。
さはさりながら商店街には余裕があるのか、可愛らしい石像が並んでいます。岡崎といえば敵の進入を防ぐために道を複雑に屈曲させた「岡崎27曲がり」が有名ですが、それを忠実に曲がり歩くことは手元の地図がアバウトすぎてままならず。
岡崎城。木立が邪魔で上手く写真が撮れませんでした(^^; 1452年頃三河守護代の西郷頼嗣が築城 → 1531年に松平清康(徳川家康の祖父)が攻め取って城郭を整備(これが現在の岡崎城の基礎) → 今川家、徳川家の支配下に置かれた後、1590年家康の関東移封に伴い田中吉政が入城し、城を拡張・再整備 というのが城そのものの略史。現在建っている天守は1959年に木造復元されたもの。なお岡崎城の隅櫓を木造復元する計画があるようです。
公園内には恰幅の良い家康像はもちろんのこと、家康幼少時からその忠実な家臣であり、徳川配下きっての武功派として知られる本多忠勝(通称「平八郎」)の像も。忠勝は岡崎生まれ。
岡崎城下を流れる矢作川を渡って次の池鯉鮒宿へ。
橋のたもとには日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と蜂須賀小六の出会いの場となった逸話にちなんで「出合之像」が。
池鯉鮒宿の手前にも松並木。池鯉鮒とは式内の古社である池鯉鮒明神の池に鯉と鮒がいたのでその名前がつけられたそうですが、現在は知立と呼ばれています。池鮒鯉宿では馬が数百頭も集まる馬市が盛大に開かれ、三河木綿市も元禄・宝永の頃までは盛況だったようです。
さらに歩を進めて中京競馬場脇を通過。
競馬場の近くには桶狭間古戦場が。もっとも桶狭間古戦場の場所については異説があり、ここからやや南の名古屋市緑区有松付近とも言われています。
有松は1608年(慶長13年)に、江戸や京、お伊勢参りの旅人たちの休憩のために、尾張藩が間の宿(あいのしゅく)として、鳴海宿と池鯉鮒宿(知立)の間に町をつくったのが始まり。なんでも有松周辺はおいはぎが多く、たいへん物騒だったことから、幕府の令を受けて人々が住むようになったのだそうです。
(続く)
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