東海道行脚16:石部~大津
(東海道行脚15から続く)
石部駅から旅を再開。関宿から旧東海道はJRの幹線から遠く離れたところを通っていましたが、横田の渡しを渡った辺りで久しぶりにJR関西本線が並走します。
石部から草津まで12kmほどあるため、中間の手原あたりは間の宿として栄えたようです。珍妙なことに見るべきものがほとんどない石部宿よりも見所豊富。ご立派な邸宅は「大角家住宅(旧和中散本舗)」。「和中散」とは生薬を粉にした胃腸薬。徳川家康が腹痛を起こしたときこの薬を飲んだらたちまち治ったことから、家康が直々に「和中散」と名付けたとか。
腰掛けていいものかどうか、微妙なベンチ・・・
目川立場田楽茶屋「元伊勢屋」。広重が描いた田楽茶屋はこちらで、地元の食材を使った菜飯と田楽が名物だったとのこと。近くには「すずめ茶屋」や「京伊勢屋」も。
草津川をトンネルで潜ります。
草津宿の入り口に立つ横町道標。日野の豪商中井氏の寄進により1816年(文化3年)に建てられました。「左東海道いせ道 右金勝寺、志がらき道」と書いてあります。
草津追分で中仙道と合流。どでかいな道標は諸国定飛脚の宰領中からの寄進により1816年(文化3年)に建てられたもの。
草津宿のシンボル「草津宿本陣」。現存する本陣の中で最大級の規模。なお草津宿には本陣が2軒あり、残っているのは田中七左衛門本陣。
一方脇本陣のほうはただのお食事処に・・・
草津は京都・大阪のベッドタウンとして急速に発展したにも関わらず、古い商家や旅館が思いのほか残っています。写真の「野村屋」は元旅籠。江戸時代末期の絵図では間口7間・奥行13間の「旅籠屋利兵衛」となっています。
瀬田の唐橋を渡ると京都も間近。武田信玄が「瀬田の唐橋に旗を立てよ」との遺言を残したという逸話が有名ですが、瀬田の唐橋は古来より交通の要衝であるとともに、軍事上の要害でもあり、古くは壬申の乱で激戦地になりました。
橋は何度か架け替えられていますが擬宝珠は歴代受け継がれているとのこと。
唐橋を渡るとまもなく膳所城跡に突き当たります。瀬田の唐橋を征する城として家康に重要視され、天下普請として江戸幕府が諸大名に命じて築城させたようですが、現在は石垣が残る程度。また膳所城は琵琶湖に面して建造されたため、当然ながら時間を経ると波による浸食を受けました、従って膳所藩は絶えず城の補修を余儀なくされ、藩財政が逼迫する一因となったようです。
膳所城跡の先には義仲寺(ぎちゅうじ)。源頼朝軍に追われて粟津の地(=宇治川の戦い)で壮烈な最期を遂げた木曽義仲をここに葬ったことが義仲寺の名の由来。室町時代に近江守護佐々木六角氏が当寺を再興。さらに松尾芭蕉が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われています。
京阪石場駅脇の踏切を越えて大津市街中心部へ。なんと大津祭の真っ只中に突入してしまいました。13基もの曳山が差して広くもない市街を巡回しているので、どこを向いても曳山だらけです。曳山に仕掛けられた「からくり」が売り物。
(続く)
| 固定リンク