幻の長崎遠征(5)
幻の長崎遠征(4)から続く
島原鉄道・島原駅改札を出るといきなり目に飛び込んでくる島原城。日本史上最大級の農民反乱である「島原の乱」との関わり合いを抜きには語れない悲しい過去を持つ城ですが、朝陽を浴びて島原の城下町に5層の天守が燦燦と輝いていました。
駅から城へ向けて緩やかな坂を登ると、見事な高石垣と塀・櫓、そしてそれを取り囲む水堀に驚かされます。島原藩はたかだか4万石の小藩。火山灰地で耕作に適さない地ゆえ実入りが少ないにも関わらず、そこにこれだけの規模を持った城郭を構え、さらに5層の天守までぶち上げるとなると、領民の負荷たるやさぞかし凄まじかったのでしょう。築城を命じた松倉重政・勝家父子に対して領民の怒りが爆発。キリシタン弾圧への反抗とも結びついて勃発したのが「島原の乱」。
なお一揆勢は一時島原城に迫ったものの、その守備は堅くて攻略ならず。結局原城に篭って幕府の大軍を迎え撃つことになりました。
本丸へ向かう道は駅とは反対側についていました。
天守に登って北側を臨んでみました。南から北へ本丸・二の丸(青灰色の建物)・三の丸(校舎や体育館などが建つ高校)と並んでいます。
二の丸と本丸は本来橋で結ばれていたのですが、その部分は復元されておらず、ちょっと間抜けな感じも。
城の西側には雲仙岳の一部をなす眉山。90年代前半の大噴火で生まれた平成新山がその後ろにちょっと顔を覗かせています。なお眉山は1792年に噴火に伴う山体崩壊を起こし、大量の土砂が島原に甚大な被害をもたらしたのみならず、その土砂が有明海になだれこんで対岸の熊本にも大津波を引き起こしました(いわゆる「島原大変肥後迷惑」)。
島原城天守の特徴は相似形の箱を積み上げたような「層塔式天守」であることと、破風が全くないこと。従って姫路城や大坂城、名古屋城あたりと比べると非常にすらっとした、無駄な装飾のないシンプルな感じがします。残念ながら往時の島原城の形状は正確には判っておらず、現在の天守は古図を参考に外観をアバウトに復元したものに留まっているようですが、上記の2つの特徴はどの古図にも共通するとのこと。
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