« 幻の長崎遠征(10・了) | トップページ | 【練習試合】浦和 2-0 新潟 »

2008.02.15

山陽路(1)

ども、浦和の旅人(笑)、紅い雪だるまです。

移動距離、コストとも某旅人に全く太刀打ちできませんが、オフシーズンはこの手のシリーズが延々と続きます。まぁスポーツ紙のコピペで済ませるよりは遥かにマシなので、ご愛読者の諸兄におかれましては今しばらくお付き合い願います。

Sanyo1_0

 赤穂城跡には大昔にも一度来たことがあって、大石神社以外とりたてて何も見どころはなかったと薄らぼんやりとながら記憶していましたが、ここ10年ほどの間に城跡に建っていた学校等を移転させ、城の発掘調査・復元が進められ、趣を新たにしているとの話を聞いて再訪してみました。

なお上写真は大石神社で見かけたもの。

Sanyo1_1

 赤穂城は本丸と二の丸が同心円を描き、三の丸がその外に張り出しています。射撃戦を想定して城壁から十字砲火を浴びせやすいように、鈍角の凸凹を随所に配した複雑な形状をしています。

Sanyo1_2

 また現在は埋め立てが進んでただの平城のように見えますが、往時は海に突き出していた模様。

Sanyo1_3

 三の丸大手門脇を固める大手隅櫓。赤穂城には天守がないので、観光写真等では赤穂城の象徴としてこの隅櫓を写しているものが多いようです。

Sanyo1_4

 三の丸にはわずかながら武家屋敷跡が残っています。その一つが大石邸長屋門。

Sanyo1_5

 三の丸に建つ大石神社。いうまでもなく大石内蔵助以下四十七士を祀ったものです。但し四十七士は江戸期にはあくまでも罪人だったためか神社の創建は極めて新しく、大正になってからとのこと。

Sanyo1_6

 まだ初詣客が見込める時期なのか、境内は初詣モードのまま。厄除けの祝詞を上げてもらっている方が結構いらっしゃいます。でも「かしこみ、かしこみ」と祝詞を大音量スピーカーでで周囲に垂れ流すのはいかがなものかと。

Sanyo1_7

二の丸は現在庭園を復元工事中。これが完成するとまた違った趣になることでしょう。

Sanyo1_8

 96年に復元された本丸門。明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩による枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって復元したとのこと(参考

Sanyo1_9

 本丸には御殿が建っていたのですが、本丸御殿はその間取りを平面復元するに留まっています。

Sanyo1_10

 本丸には天守台が残っていますが、ついに天守が上がることはありませんでした。途中で金がなくなったのでしょうか?忠臣蔵では赤穂藩はとにかく金がないために吉良へ十分な付届けができず、浅野内匠頭は吉良に嫌がらせを受ける羽目になったとの話が出てきますが、こんな中途半端なもの建てているからじゃね?という感も。

Sanyo1_11

 また本丸の隅にも櫓が一つあがっただけで、その他は枡形を作ったのみ。これも予算不足ゆえか。

Sanyo1_12

 天守台上から見た池泉。

Sanyo1_13

 二の丸にある山鹿素行の像。軍学者として高名なためか、この城が「山鹿ブランド」であることをしきりに強調されるきらいがありますが、赤穂城の縄張りを作ったのは近藤正純氏。山鹿素行は途中で二の丸城郭にアドバイスを入れただけで、あんまり山鹿素行を持ち上げるのもどうかと・・・ なお赤穂城築城は太平の世になってからの話。当然ながら幕府の許可を得ての築城ですが、外様大名にも関わらず築城許可が出た例はそれほど多くはないようです。

|

« 幻の長崎遠征(10・了) | トップページ | 【練習試合】浦和 2-0 新潟 »

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山陽路(1):

» 山陽路(2) [浦和御殿]
山陽路(1)から続く 赤穂の街はまさに「赤穂浪士」だらけ。 駅舎からして櫓風。 [続きを読む]

受信: 2008.02.18 11:45

« 幻の長崎遠征(10・了) | トップページ | 【練習試合】浦和 2-0 新潟 »