南部路(4)
(南部路(3)から続く)
じゃじゃ麺を堪能した後は盛岡城址を散策。
「白龍」からほど近いところに建つ桜山神社。っちゅーか、件のにんにくストリートは桜山神社の表参道のようなもの。桜山神社は、1749年(寛延2年)当時の八代藩主・南部利視が、初代藩主・南部信直の没後百五十年にあたり、その功績を称えて盛岡城内の淡路丸に勧請し社殿を建立したのがはじまり。
神社の裏手にある「烏帽子岩」。盛岡城築城の際、この地を掘り下げた時に出てきた大岩で、この場所が城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされたとのこと。三の丸の一角に御神体があるというのはちょっと妙な感じも。
盛岡城は北上川とその支流中津川の合流する丘陵に位置する平山城で、東北地方屈指の巨城なんですが、残念ながら櫓、門等の建造物は全く残っていません。ただ残された石垣は南部盛岡二十万石に相応しい威容を誇っています。
上写真は桜山神社から南へ下って三の丸~二の丸の裾野を巡ったもの。
農林会館前から坂を登って本丸へ。
本丸には天守代用の三階櫓があった他、二階櫓が2基あったそうですが、今は影も形もなく、なぜか銅像の台座だけがぽつんと残っていて哀れを誘います。日露戦争で戦死した南部家第42代南部利祥の功績を賞して建てられた銅像があったのですが、太平洋戦争末期の軍需物資供出でなくなったとのこと。
本丸と二の丸は空堀で隔てられ、その間に橋が架かっていました。
その後三の丸、腰曲輪を経て撤収。公園としてはよく整備されているものの、縄張り、櫓跡、門跡等の案内はほとんどなく、史跡・城址としての価値を高める工夫がなされていないのは残念でした。
盛岡城址巡りだけで盛り上がりに欠けたまま帰るのもアレなんで、定番っぽい市内観光も混ぜておきます。上写真は旧盛岡銀行本店。一見して判るとおり、日銀本店や東京駅等を手がけた明治期を代表する建築家である辰野金吾博士と岩手県出身の葛西万司博士の設計。
現在でも岩手銀行中ノ橋支店として利用されていて、赤レンガの建物に緑の「岩手銀行」の看板が付いていますが、看板は目立ちにくい色・形状に変えられないものなんでしょうか?
旧盛岡銀行からほど近いところに建つ旧国立第九十銀行本店。盛岡の銀行としてはこちらが先輩格だったようですが、経営不振が祟って公金が扱えなくなり、その結果地元の有志が盛岡銀行を設立するに至ったとのこと。従ってその後両者が因縁の対決となったのは当然で、本店建築に際しても両者には激烈な競争があったとか。
旧第九十銀行本店を写真に収めようとすると、前の電信柱がうざくてしょうがないのですが、この電信柱はなんと竣工当時からうざい存在でしたwww
旧盛岡銀行本店から北へ歩くと、紺屋町番屋。盛岡消防分団として1913(大正2)年に建てられ、今なお現役。「盛岡市消防団第五分団」の文字がはっきり見えます。といっても望楼が利用されることはないのでしょうが。
中津川に架かる「上の橋」。1609(慶長14)年に架橋され、高欄に据え付けられた青銅擬宝珠(ぎぼし)が有名。下流の「中の橋」にも元々は擬宝珠があったそうですが、中の橋が洋風に架け替えられた際に上の橋に移された擬宝珠もあるとのこと。
裁判所構内にある石割桜。花の季節じゃないと有り難味もへったくれもありません。”若く明るい歌声にー”の「青い山脈」って津軽の話だったのにおかしいなぁってちょっと思ったのですが、よく考えるとそれは「雪割桜」でした・・・orz
盛岡市街中心部と盛岡駅を結ぶ「開運橋」。1890年(明治23年)の盛岡駅開業に伴い、当時の岩手県知事石井省一が私費で完成させたもので、翌年市が買収するまでは通行1回1銭の橋銭が取られていました。2007年7月から夜間ライトアップが始まったとか。
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