紀州路(6)~根来寺
(紀州路(5)から続く)
中世を代表する大寺院でありながら、粉河寺とともに秀吉の紀州攻めで全焼した根来寺にも足を伸ばしてみました。根来寺はJR和歌山線からやや離れているので、岩出駅からタクシー利用。
開山は覚鑁(かくばん)。覚鑁はもともと高野山の高僧だったのですが、堕落していた高野山の信仰を建て直しを図る過程で覚鑁一門と反対派が対立。やむなく覚鑁一門が高野山を下り、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移したのが根来寺成立のきっかけ。
室町時代末期には領地72万石、数多の子院を有し、鉄砲隊を持つ「根来衆」は数万にも及び隆盛を極めましたが、1585年秀吉の紀州攻めで伽藍や子院のほとんどを焼失。従って大塔・大師堂以外の建物は江戸時代に復興されたものです。
大門は他の建造物とは離れていて、途中時折車が行き交う道路を歩かねばなりません。もともとの根来寺の規模を大きさを実感するにはいいのでしょうが、逆に言えば衰微してしまったのを実感することにも。
光明殿
国宝大塔。高さ40メートル、幅15メートルの日本最大の多宝塔です。
大師堂。大塔とともに秀吉の焼き討ちをまぬがれた建物です。本尊の造立銘から1391年(明徳2年)頃の建立と推定されているとのこと。
お地蔵さんとともに備えられていた達磨。
根来といえは寺院よりもむしろ強力な僧兵、特に信長を悩ませた鉄砲集団として有名。また「根来衆」は忍者集団としても知られていますが、それを想起させるようなものは境内には一切ありません。
寺の外にはいろいろあるんですけどね。
専ら「赤影」のイメージが強いせいだと思いますが、根来衆ってなんか悪役として登場するケースが多いような・・・
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