藤口社長の3年間を振り返る
クラブから藤口社長の退任が報じられたので、これまでの3年間(2006/6末~09/6末)を簡単に振り返っておきます。
チーム成績を見るとリーグ、天皇杯、ACLを各1回制しているので叩かれる筋合いは全くないようにも見えますが、06~07年の好成績は犬飼時代の遺産=「個人能力に秀でた選手の集合体」で勝ち取ったようなもの。ギド退任後、オジェック再招聘→チーム内紛→翌年わずか2試合目でオジェック電撃解任→ゲルト内部昇格→終盤ゲルト晒し者、と社長のマネジメント能力に疑問符がつく出来事が相次ぎ、それと併行してチームも急速に弱体化してゆきました。特に08年の大迷走は浦和史上に残る大罪として断罪されてしかるべきものだとう思います。
営業面に目を転じると、営業収入・入場者数とも藤口社長の業績は実にご立派なもの。ただこれも「大型補強→戦績向上→大型補強」が順回転しながら継続的に話題を提供し、かつ器を拡大(=埼スタシフト)した犬飼路線の上に乗っかったまでのこと。チームのバランスとは何の関係もない、話題性優先=営業優先&代理人の進めるがままの大型補強があだとなったのが08年。これがチームの弱体化を引き起こしたことを思えば、ご立派な営業成績も素直に評価していいものかどうか。
「継続的な大型補強」は営業に資するところはあってもチーム力強化の手段としては奇道でしかない。犬飼時代には表面化しなかった「継続的な大型補強」のデメリットが藤口時代になって噴出したという意味では藤口社長も気の毒な面はありますが、藤口社長はその修正ができなかったどころか監督選任の失敗、及びその後のドタバタでますます事態を悪化させたといってもいいでしょう。
その他、在任中の業績をオフィシャルイヤーブックの"CHRONOLOGICAL RECORDS"をもとに振り返ってみると
<2006年>
・アカデミーセンター開設
・大原に坂路導入
・リーグ戦で日本初の「紅白ゴールネット」導入
・"ALL COME TOGETHER"キャンペーン開始 (以後07年、08年と継続)
<2007年>
・明治製菓、DHLとのトップパートナーシップ契約締結
・MDP増ページ、メインアッパーで場内FM番組開始
・シャーレ君、ディアラちゃん誕生
・上海で「ハートフルサッカー」開催(以後インドネシア、タイ、UAE等でも開催)
<2008年>
・Edyをスタジアム売店に導入
・レッズランド法人化
・"OPINION BOX"を埼スタ等に設置
・「G大阪戦水風船事件」を機に緩衝帯拡大・脱着式ネット設置
・レッズランドクラブハウスリニューアル
・信藤TD就任
・来季の監督としてフォルカー・フィンケを発表
とざっとこんな感じ。申し訳ないが
・経営基盤強化(=三菱自との補填契約解除&増資)
・豊富な資金を投じてクラブの環境整備(大原)
・埼スタの諸環境整備
・下部組織強化
・普及活動促進(ハートフル、レディース)
・地元への利益還元(レッズランド)
を同時並行で推し進めた犬飼前社長の4年間と比べると実績はいずれも非常にささやかなもの。前社長からの懸案であった「増資問題」は全く進展せず、「埼スタ屋根設置」も検討はしていた様子でしたがこれまた目処立たず。ハートフルの海外活動は国際的に高く評価され、「国連の友」と提携するに至りましたが、藤口社長はこうした広い意味での広報活動=サッカーそのものの普及が得意分野であって、社長を任せるのはちょっとしんどかったようです。
ただ、あとで振り返ってみれば巨大な功績として評価されるかもしれないのが「信藤氏のTD招聘」。08年の大失敗に鑑みてか、簡単にいえば「社長がサッカーに疎くてもトップチーム力強化には差し支えない体制」を作ってくれました。もっともそれは「枠組み」だけであって、それがチームの強化を保障するわけではない(信藤氏がボンクラだったらそれまでですわ・・・)のですが、三菱自からサッカーには縁遠そうな社長を迎えるにあたって良い置き土産だと思います。
09年になってフィンケ監督の意向を受けての情報コントロール、及び公式サイトによる積極的な情報発信という刮目すべき成果も出ていますが、遅きに失したというかそれまでのあんまりな広報の仕事ぶりを考えると高い評価もできず。
手腕には疑問符がつき、私個人としては退任は妥当と考えますが、藤口社長が最後まで逃げずにファン・サポーターと向き合おうとしたことは賞賛されてしかるべきでしょう(声を聞いた後の行動に少々不可思議なところがあったとしても)。5万人のブーイングを受けることを覚悟で挨拶に立つ社長はそうそういません。
3年間誠にお疲れ様でした。
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