山形2009Ⅱ-(2)~山形城
(山形2009Ⅱ-(1)から続く)
山形駅西口から北へ歩いて10分強のところに山形城があります。山形新幹線からも山形を出るとすぐにお堀や東大手門が見られます。別名「霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)」。
山形城の基礎は伊達政宗のライバルとして知られる最上義光の時代につくられ、江戸期になって鳥居忠政の時代に現在の形に整えられました。
山形城は、本丸、二の丸、三の丸が同心円状に配置された輪郭式平城。今ではほとんどその痕跡を留めていませんが三の丸がとてつもなく巨大で奥州最大どころか、全国でも屈指の広さを誇っていたとのこと。
しかしそれは最上57万石あっての話で、時を減るに従って山形藩の領地はどんどん削られ、最後はわずか5万石になってしまい、当然ながら城郭の維持は困難になって荒れ放題になった模様。上写真は最上義光像。
山形駅西口から北へ歩くと南追手門口に突き当たります。ここから二の丸へ。後ろにちょこっと体育館が見えています。二の丸には体育館の他に博物館や野球場などが作られ、城址見学的にはかなりがっかりの部類。
二の丸の周囲をぐるっと水堀が取り囲んでいますが、石垣が用いられているのは門周辺だけで大部分は土塁。見栄えはあまり良くありません。
二の丸から本丸一文字門へ向けて橋が架かっています。
復元工事中の一文字門。本丸の石垣や塀、土塁は明治期に歩兵32連隊の兵営敷地となった際に取り壊され、お堀も埋め立てられてしまいました。
ようやく復元に着手してお堀を掘り返し、石垣をくみ上げては見たものの、門や御殿の正確な形状を知りうる古写真や立面図がなく、間取り図が残っている本丸御殿は平面復元に留める模様。
こちらは1991年に復元された二の丸東大手門。 巨大な一ノ門(多聞櫓門)と小ぶりの二ノ門(高麗門)で枡形を構成しています。この門だけを見ると最盛期の山形城がいかに巨大であったかが判るような気がしますが、その巨大さゆえに貧乏藩には維持がままならなかったようです。
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