山形2009Ⅱ-(3)~山形市内散策
(山形2009Ⅱ-(2)から続く)
山形は自然と温泉に恵まれ、蕎麦や果物など食い物も美味いのですが、街歩きという点では残念ながらあまりぱっとしたところがありません。県庁所在地山形市ですら街の空洞化が進んでいて、七日町辺りの市街中心部に活気が乏しいのもその一因と思いますが・・・
旧済生館病院本館。もともとは市内中心部に建っていましたが、1966年に国の重要文化財に指定された後、保存のため山形城二の丸内に移築されました。なお済生館自体は今も「山形市立病院済生館」として健在で、モンテディオ山形の担架スポンサーになっています。
初代山形県令三島通庸の命によって建築が進められ、1878年(明治11年)竣工。地元の宮大工がたった7ヶ月で西洋建築を見様見真似で建てた「擬洋風建築」で、「済生館」の名は太政大臣三条実美によるもの。
正面の楼閣(「三層楼」と呼ばれていたとのこと)の印象があまりにも強くてとても病院には見えませんが、楼閣の背後にドーナツ上の建物がくっついていて、そこが病棟になっていた模様。
でもなんとなく刑務所のようにも見え・・・
山形県旧県会議事堂。
山形県旧県庁舎。旧県会議事堂共々1916年(大正5年)にイギリス・ルネサンス様式を基調としたレンガ造りで建てられました。現在は共に「山形県郷土館(愛称:文翔館)」として利用されています。
この県庁の正面から南の方角へズドーンと真っ直ぐ道が伸びていて、七日町商店街を初めとした山形市の中心部繁華街が続いています。あたかも県の威光を示しているかのようなロケーションですが、逆に言えば山形市中心部の空洞化は県庁郊外移転がきっかけのような・・・
1901年(明治34年)竣工の旧山形師範学校本館。山形師範学校も初代山形県令三島通庸によって1878年(明治11年)に創設されましたが、本館竣工は三島が山形を去った後。
三島通庸は明治初期に山形県令になって街道を大々的に整備し、県庁・病院・学校等の建築に力を注いでいます。旧済生館病院もその一つなんですが、政治手法は非常に強権的。住民に過酷な税・賦役を課し、自由民権運動に大弾圧で臨むなど全国的には必ずしも評判が良い人物ではないはずですが、山形に残した功績は悪評をもって余りあるということなんでしょうか・・・
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