熊本散策(4)~人吉城
(熊本散策(3)から続く)
交通センター 6:30 (産交バス) 8:18 人吉産交
翌日は早朝から高速バスに乗って人吉へと足を伸ばしてみました。人吉は球磨川中流で外界から隔絶された盆地をなしているせいか、同じ熊本県内ながら歴史的には熊本市あたりとは全く違う歴史を歩んでいます。
人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれています。
人吉城は古くからこの地を支配した相良氏の居城。相良氏は鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来、一時島津氏の勢力下に入った時期以外は綿々と人吉の地を支配し、そのまま明治維新を迎えるというとんでもない歴史を持っています。
上写真は平成に入って復元された多聞櫓・長塀・隅櫓。
大手門跡。
人吉城は1589年から断続的に城の大改修が進められ、1639年にようやく完成。但しその後2度にわたって大火事があり、特に1862年の寅助火事では城内のほとんどの建物が焼失してしまったとのこと。
さらに西南戦争では薩摩軍の拠点となって、幕末に再建された建物も焼失。
人吉城には「武者返し」と呼ばれる独特の石垣があります。城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んでありますが、これでねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、逆に石を落下させることで、城壁に張り付いた敵への攻撃にもなるようにしているとのこと。
もっとも薩摩軍の猛攻にもびくともしなかった熊本城とは対照的に、人吉城は官軍の攻勢の前にはさしたる役に立たなかったような・・・
水の手門跡。人吉城には球磨川の水運を利用するため7箇所の船着場が設けられ、水の手門はその最大のもの。
御下門のあったところの石垣。ここから三の丸、二の丸を経て本丸へ至りますが、本丸には天守は築かれず護摩堂があったとのこと。本丸が狭小なためか、城主の住む御殿は二の丸に建てられ、人吉の実質的な中心は二の丸だった模様。
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