熊本散策(2)~熊本城
(熊本散策(1)から続く)
熊本の観光名所といえば一にも二にも熊本城。現在の熊本城への出入り口は4つ。
市電「熊本城前」から城へ向かって歩くと、最も近い入り口は「櫨方門」。ここから竹の丸→天守と登るルートが自然かと思います。しかし観光バス等で城へ乗りつけると二の丸駐車場から「頬当御門」を潜っていきなり宇土櫓の横を通って天守に登る格好になり、下手をすると熊本城内の高低差がほとんど判らないまま城を後にする羽目になってしまうかもしれません。
熊本城の天守は西南戦争直前に焼失してしまい、現在の天守は1960年(昭和35年)鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。だからというわけではありませんが、熊本城の見所は天守ではなくむしろ石垣でしょう。竹田丸から飯田丸へかけての一帯はしっかりと高石垣で固められています。
反りや積み方が全く異なる石垣が並列する「二様の石垣」はあまりにも有名。緩やかに裾を引いているのが加藤時代のもので、より勾配が急なほうが細川時代のもの。
飯田丸五階櫓。飯田丸の名称は加藤清正の重臣、飯田覚兵衛(いいだかくべえ)が管理していたことから来ているとのこと。熊本城南面防衛の要で2005年に復元。宇和島城や備中松山城の天守と比べてはるかに巨大ですが、名目上はあくまでも櫓。
本丸御殿。藩主の居間、対面所や台所等の機能を有していましたが、天守同様西南戦争直前の火災で焼失。
対面所、数寄屋(茶室)と大御台所が2007年に復元され、翌年4月から一般公開。天守と並ぶ熊本城見物の一大目玉に。
闇り通路。本丸御殿は2つの石垣をまたがるように建てられ、地下通路がある変わった構造になっています。本来は闇り通路から階段を登って1階の玄関に出るのですが、さすがにそこな形を再現するに留めて、観光客は別ルート。
本丸御殿最大の見所は一番格式の高い部屋「昭君の間(=漢時代に胡の国に送られた絶世の美女”王昭君”の物語が描かれていたことに由来)」なんですが、残念ながら撮影禁止。所詮模造品なのに不可思議なことで、撮影禁止は観光客の渋滞を避けるためじゃないかと思うのですが、誠に残念。
本丸御殿の前には熊本城の別名「銀杏城」の由来となったイチョウの樹。万一籠城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたといわれています。昔博多~熊本間に急行「ぎんなん」というのも走っていたのですが、そういう話をしだすと長くなるので省略(苦笑)。
天守は大小の天守が連なった連結式望楼型。大天守は5重6階地下1階。小天守は3重4階地下1階。熊本城は古写真が複数残っているので、外観だけはかつての姿に忠実な復元が容易だった模様。今となっては鉄筋コンクリート造りなのが惜しまれますが。
源之進櫓。その他四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓と連なる櫓群は城の内側から眺めるよりも外側から仰ぎ見たほうが美しいと思うのですが、この日は逆光になってしまい残念。
「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓。3重5階地下1階。熊本城最大の櫓で、西南戦争を経て生き残った数少ない建造物の一つ。かつては小西行長の居城「宇土城」の天守を移築したとの説がありましたが、1989年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので現在は否定されているとのこと。
南大手門や西大手門は城郭外にある格好。
熊本城の最北端を固める「監物櫓」。もっとも監物櫓の名は明治になってから。長岡図書本邸の中にあったので、もともとは「長岡図書預り櫓」と呼ばれていましたが、明治になり陸軍が管理するようになってから隣の長岡監物邸と取り違えて「監物櫓」と登録してしまい、それが定着してしまったとのこと。
熊本城は長期にわたって復元計画が立てられており、百間櫓、西竹の丸五階櫓、数寄屋丸五階櫓、御裏五階櫓、櫨方三階櫓、北大手櫓門を復元予定。復元にあたって熊本市民の寄付を募っているようですが、半年強で3億円以上の募金が集まったとの報も。市民から絶大な支持を受けている公共事業って今時滅多にありません。
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