ごらんアウェー:C大阪2011(4)~高野山(上)
(ごらんアウェー:C大阪2011(3)から続く)
堺東 6:12 (南海 2038) 6:51 橋本
橋本 6:55 (南海 2352) 7:36 極楽橋
早朝から南海高野線に乗って高野山へ。関西出身者ながらお恥ずかしいことに、今まで高野山に行ったことがありませんでした(キッパリ)。ちなみに高野線の終点極楽橋駅には「諸般の事情」で行ったことがあります(苦笑)。
朝早すぎで高野山行きの特急はまだ走っていないので、橋本でたった2両編成の電車に乗り換え。
極楽橋 7:40 (高野山ケーブル) 7:45 高野山
終点極楽橋駅から、さらに高野山ケーブルに乗り換え。
堺東から約1時間半で高野山駅到着。 といってもここは単に高野山中心部へ向かうバスの発着所に過ぎず、周りは何もありません。
ひとまず向かったのは「奥の院」。
高野山に立ち並ぶ寺院群の東端にある一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道沿いに無数の石塔が立ち並んでいます。もっともバスで「奥の院前」まで進むと、中の橋の近くに出てしまいますが。
御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥の院で、弘法大師御廟があります。
奥の院参道に沿って並ぶ無数の石塔の数は皇族から一介の庶民まで実に様々。中には企業が建てた石塔も見受けられましたが、こういう「企業丸抱え」的センスに違和感を持つのが今はフツーなのでは???
戦国武将、さらには時代が下って江戸期の大名の墓所もたくさん! 上は織田信長墓所。日本史上における存在感の大きさひ比すれば随分と小ぶり。
こちらは上杉謙信、景勝の霊屋。江戸初期頃の建造と推測され、重要文化財。謙信の名は1574年(天正2年)に上洛した時、高野山にも訪れ、その折に贈られた法名だそうで。
その前に謙信は自国経営上の争いごとに悩まされ、高野山で出家しようとしたんだよなぁ・・・
奥の院から一の橋を経て、西へぷらぷら歩いて苅萱堂。苅萱道心・石道丸父子の悲話に由来するお堂。出家した苅萱道心とその子石道丸が庵を結んだところです。
悲話そのものは割愛しますが、要するに苅萱道心(加藤左衛門尉繁氏)が妾を取って、妻妾のややこしい関係に巻き込まれたのが悲話のもとなんで、なんだかなぁという気がしないでもなく・・・
苅萱堂から少し南へ緩い坂を登ると金剛三昧院。
北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として1211年(建暦元年)創建。1219年(承久元年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称。
国宝の多宝塔。1223年(貞応2年)建立で、滋賀・大津市の石山寺塔に次ぎ日本で2番目に古い多宝塔です。
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