2008.05.08

山陽路(10・了)

山陽路(9)から続く

 備中高梁は小さいながらも城下町。5~6万石の小藩ですがなぜか改易や転封が相次いで目まぐるしく城主が交代。またそれ以前の戦国期も城主が安定しなかったのですが、近代以降それほど街が発展しなかったのが幸いしてか、城下町の面影がはっきりと残っています。

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 政務は山のてっぺんにある城ではなく、麓の「御根小屋」で執っていたのですが、現在その跡は高校になってしまいました。高校なのに武家屋敷風の門構え。

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 旧折井家。代々板倉家に仕え、軍役を掌る物頭格。約200石程度の家柄とのこと。

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 板倉家では屋敷の規模を5段階に分け、家格と職務内容に応じて分け与えていたとのこと。折井家は二番屋敷に相当。

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 屋敷にはマネキンを置いてライブ感覚を演出しているのですが、どう見ても欧米人風のマネキンを置くのかいかがなものかと・・・ 

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 こちらは旧埴原(はいばら)家。120~150石取りの近習役・番頭役。

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 武家町から線路を渡って高梁川へ向かって降りた一帯には商人町が広がっています。そのうちの一つ旧池上邸が商家資料館として保存・公開されています。元々は享保年間創業の小間物屋だったのですが、高梁川の水路の船主や両替商で財を成し、さらに明治期に醤油の製造販売を始めたとのこと。従って商家資料館といっても館内は醤油製造に関する展示が主を占めています。

 建物は天保の大火災後に建築されたもの。

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 備中高梁の良いところは、この池上邸だけではく、それに連続する本町の商店街が一体となって「古い町並み風」で家屋を統一しているところ。当然ながら新築・改築には何かと制約がかかり、かつコストもかかるのでしょうが、観光客を引き寄せるにはこうした取り組みが必須。津山で残念な例を目にしたばかりだっただけに、より好ましく思いました。

(了)

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2008.04.23

山陽路(9)

山陽路(8)から続く

 現存12天守の中では日本一の高所(標高430m)にあり、日本三大山城の一つに数えられる備中松山城。

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 観光シーズンの土日祝には城周辺への自家用車の乗り入れが規制され、代わりに麓からシャトルバスが出ているのですが、冬はシャトルバスが運行されておらず、やむなくタクシーで城へ向かいました。備中高梁駅から駐車場まで10分弱。もっとも城まで直接車で入れるわけではなく、駐車場から10分ほど急坂を登らなければいけません。

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 ようやく石垣が見えてきました。

 備中松山城は明治の廃城令を受けてそのまま打ち捨てられていた(あまりにも山奥にあるので地元住民にも忘れられていたとか)ところ、地元研究者が再評価。昭和初期になって住民の手によって解体修理され、さらに平成になって改修を行って現在に至っています。

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 大手門。備中松山城は石垣のみならず、石垣を支える岩盤自体に崩壊の恐れがあるとのことで高梁市が京大と共同で監視システムを設置したとのこと。

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 三の丸へと続く土塀。一部は現存で重要文化財に指定されています。

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 三の丸から見た風景。山城なので城郭も三の丸・二の丸・本丸と単純な構成ではなく、曲輪が幾重もの層を成しています。

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 二の丸。やっと天守が見えてきました。

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 本丸への入り口。正面に見えるのは五の平櫓。天守は現存ですが、本丸の櫓、門、土塀は平成になって復元されたものがほとんどです。

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 ついに天守に突入します。二重二階の現存最小の天守。一見三重にも見えますが、左に張り出している部分は本来は八の平櫓へと続く廊下の一部。八の平櫓が現存しないので仮入り口として利用されています。

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 天守の裏へ回ってみると、天守同様、現存の二重櫓が。

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 二の丸へ降りて、搦手へ回ってみました。後曲輪から見た天守・二重櫓。

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 日が傾いてくると山城は冷えます。車で来た道を引き返しても面白くないので本来の自然歩道で山を駆け下りてみましたが・・・落ち葉がうずたかく積もっていて滑りやすく、危うくスリップ転倒しそうになること2回。短絡しているはずですが、結局車道を歩いたほうが速かったかも。

(続く)

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2008.04.22

山陽路(8)

山陽路(7)から続く

 岡山を代表する駅弁といえば「祭ずし」(みよしの 950円)。

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 やたら派手なパッケージ。

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 桃を模った容器

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 寿司飯の上に錦糸卵を敷き詰め、ママカリ・さわら・えび・あなご・しゃこ・たこ・も貝等々瀬戸内の幸を散りばめています。「も貝」というのはちょっと耳慣れませんが、これが海外産の怪しげな貝ではなくて岡山西部笠岡地区の特産品とのこと。

 なお「祭ずし」の名はパッケージに記された解説によると、備前の喰い祭例といってちらし寿司を作ってお客さまに振舞う事がお祭りの一番の楽しみだったことに由来するとのこと。なんでも池田光政が出した倹約令の影響でお祭りのお御輿やお囃子が廃止されてしまい、その反動でちらし寿司が派手になったとか。

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 特急「やくも」で備中高梁へ向かいます。四半世紀前に登場した車両(381系)がまだまだ頑張っています。

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 昔は2重になったガラス窓の間にブラインドがあって、レバーをくるくると回してブラインドを巻き上げる凝った仕組みになっていました。もうそんなことを覚えている人も少ないでしょうが(苦笑)、回転レバーを撤去した跡の蓋が往時を思い起こさせます。

(続く)

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2008.04.18

山陽路(7)

山陽路(6)から続く

 津山城は大きな災害を受けずに明治維新を迎えたためか、多数の櫓を従えた5層の天守の姿が古写真にしっかり残っていますが、明治になって廃城とした際に建造物を徹底的に破壊してしまい、天守や櫓はおろか門すら残っていません。平成の世になって築城400年記念としてようやく「備中櫓」が復元されようやく面目を施した次第ですが、元々の規模が壮大だっただけにまだまだ寂しさは拭えず。ちょっとずつでも復元が進むことを願うばかりです。

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 建造物がほとんどないとはいえ、津山城に残る高石垣は見事。

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 南面には高石垣がひな壇のように三重に重なっています。

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 大手口。

 城跡一帯は鶴山公園として整備されており、公園は有料(210円)。

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 三の丸、二の丸と登ってゆくと津山城唯一無二の見どころ「備中櫓」が頭上に覆いかぶさるかのように建っています。

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 裏鉄門から本丸へ

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 一見天守台のように見えますが、これは粟積櫓跡。「小天守」と称されていました。

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 本丸の東側は一段高くなって石垣で固められています。

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 津山城の天守は本丸中央ではなく、その西端に偏って建てられていました。層塔型の5層5階の天守(4層目は庇として数えず、4層5階と表記する例も)。

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 備中櫓は戦闘専用ではなく、むしろ居住用。従って内部は書院風に造られた区画さえあります。

(続く)

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2008.04.02

山陽路(6)

山陽路(5)から続く

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 津山は岡山県北部、かつての美作国の中心都市で、周囲をぐるりと山に囲まれた盆地の街でもあります。市街を吉井川が貫流。この川をかつては高瀬舟が行き交い、津山の繁栄を支えていました。また津山は交通の要衝でもあり、城下を出雲街道が東西に伸びていました。

 宮川から東に昔の家並みがところどころ残っています。

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 1758年(宝暦8年)創業の苅田酒造。看板に見える「諸白」は清酒のブランド名のようです。

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 作州城東屋敷。江戸時代の町家を復元した無料休憩所です。屋敷裏のだんじり展示館には県指定有形民俗文化財のだんじり4台を展示してあるとのことですが、時間が早すぎて見学できず。

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 隣は消防車の車庫。早朝から車の整備でしょうか。

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 この辺りは「城東町並み保存地区」に指定されているらしいのですが、残念ながら現状は旧家が文字通り散在しているだけで後はぱっとしないというか、昭和40年代くらいから時が止まったような商店が軒を連ねているだけで、まさに旧と旧々が渾然一体。街道沿いの住民が外観の整備・美化に協力して古い町並みを観光地として売り出してゆこうという意欲はさほど窺えません。だいたい文化財登録されているような家屋にすら商工会作成の派手なポスターを貼っているくらいですから、その意欲の程は推して知るべし。

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 かつての日本航空のマークに似た文様が目に付きますが、津山はかつて鶴山と呼ばれていたところから来ているのでしょう。

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 智頭で見かけた軒先の飾りものが津山の商家にもありました。智頭は旧因幡国で津山とは国を異にしますが、さほど距離があるわけでもないので文化的に相通じるところがあるのでしょう。

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 商店街には「カッパ」のモニュメント。乳首がツンとしているので、街中に置くにはかなりエロエロのような・・・

P.S.

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 作州城東屋敷の消防車の挙動がおかしいと思ったら案の定。吉井川の河原では消防隊の一大イベントでした。一番上の写真を良く見ると、イベント準備に来た消防団らしい人が3,4人写っています。

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2008.03.29

桜満開2008

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 川口駅西口傍のリリアパーク。落ち着いて花見をするなら近所が一番ですね。

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 王子駅。ホームから飛鳥山の桜が見えます。

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 本郷通り側に出てみました。江戸時代からの花の名所として知られる飛鳥山公園は文字通り人だらけ。

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 染井霊園辺りまで足を延ばしてみました。ソメイヨシノの「ソメイ」とはここから来ています。

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 染井からは六義園が近いのでこちらにも寄ってみましたが、とんでもない行列で断念。昨日NHKの9時のニュースで夜桜中継をやっていたのが致命傷になったな(´・ω・`)ショボーン

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2008.03.13

山陽路(5)

山陽路(4)から続く

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 長らく工事中だった岡山駅ですが、東西連絡通路がようやく完成。乗り換え路線が多いわりにはホーム間の連絡が悪くて難儀させられましたが、これでようやくすっきりです。

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 連絡通路ができただけで駅の外観は大して変わらず。

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 当然ながら桃太郎も健在。

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 日も沈んで急速に闇が迫ってきましたが、チンチン電車に乗って岡山城へ繰り出してみました。

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 桃太郎スタジアムで大逆転負けを喫したあの時以来の岡山城。ライトアップされた城を見る機会はこれまであまりなかったので貴重な経験です。

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 岡山城は戦災で焼け落ちてしまいましたが、唯一往時の姿をとどめる月見櫓もライトアップされています。

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 岡山城の近くに、岡山ラーメンの名店「やまと」があります。ここはデミカツ丼が有名でかつて一度試食したことがありますが、ラーメンが旨いことでも知られています。実際前回来た時はもう暑い時分にも関わらず大半の方がラーメンを注文していました。カツ丼に小盛りの中華そばを付けている剛の者も少なくありません。他にやきめしやハヤシライス、オムレスなんかも用意してあります。

 行列店として知られていますが夕方ともなると店内も閑散。一人客を無理やりカウンターに押し込むことなく、空いているテーブル席に通してくれたのはありがたい限り。有名になって接客態度が悪くなる店も少なくありませんが、ここはその弊を免れているようです。中華そば(650円)を注文。初めてならカツ丼(小:500円)も付けたでしょうが今日は自粛(笑)。

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 茶色く濁ったスープ。とんこつベースなのでしょうか、若干トロ味がついていますが一口すすると煮干系(?)の渋みが出てきます。旨い!文句なく旨い! しつこくもなく、辛くもなく、ぐいぐいと飲ませるスープ。もちろん完飲。

 チャーシューがまた良い。やや脂身がついてトロトロの分位もあれば、渋めにローストされた厚くて噛み応えのある分位もある。チャーシューが旨いのは洋食屋を兼ねているノウハウが活かされているのかもしれません。

 麺は極細のストレート麺。スープがよく絡んで悪くはないのですが、こればかりは好みから外れているのでちょっと残念。具は他に細めのモヤシと柔らかめのメンマ、それに小口ネギがやや多めにかかっています。

 麺が好みから外れていることだけが残念ですが、スープとチャーシューは間違いなく全国レベルの出来だと思います。良い物に巡り合いました。

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 ただ「やまと」のある表町はもともと岡山有数の繁華街のはずなのですが、日が落ちるとぱったりと人通りが途絶えて寂しい限り。街の中心が岡山駅のほうへ移ったのか、あるいは街全体が空洞化しているのかは判りませんが。岡山と広島は何かと比較されがちですが、夜の賑わいに関して言えば岡山は広島に遠く及ばないかと。

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2008.02.28

山陽路(4)

山陽路(3)から続く

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 伊部(いんべ)は備前焼の里。山陽新幹線の車窓からもレンガ造りの煙突が林立する様を眺められます。駅前に備前焼のギャラリーが軒を連ねていますが、観光的にはオフシーズンのためどこも閑散としていて、ちょっと敷居が高くて入れませんでした。

 焼き物は全くの門外漢なのですが、釉薬を使わないので表面はごつごつしているのが特徴。

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 天津神社。焼物職人の間で信仰が篤いのでしょうか、いたるところに備前焼が用いられています。

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 狛犬はもちろん備前焼。

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 塀に埋め込まれた化粧板。これも備前焼。

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 屋根瓦も備前焼。赤みがかっているので三州瓦のようにも見えますが。

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 十二支を象った飾りも備前焼。でもそもそもなんでこんなもんが神社にあるのかが判りませんが(^^?

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2008.02.27

山陽路(3)

山陽路(2)から続く

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かつて瀬戸大橋を疾走していた電車(213系)も世代交代。のんびりした赤穂線で余生を送っていました。

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 先を急いでも仕方がないので、日生(ひなせ)で途中下車。小豆島やその他周辺の島々への連絡船が出る小さな港町です。

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山の中腹に生垣で象った「ひなせ」の文字が見えます。港は山を挟んで2つに分かれているようで、駅前から出るのは小豆島行きの大きなフェリー。

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 山を越えた港からは周辺の小島への連絡船。学校帰りの学生やヤマトの配達員などが乗り組みます。

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 日生は小さな港町ですが、その割りにお好み焼屋が目立ち、油とソースの入り混じった臭いがどこからともなく流れてきます。

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 全国的には全くといっていいほど知名度がありませんが、この辺りはカキが名物のようです。

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2008.02.18

山陽路(2)

山陽路(1)から続く

赤穂の街はまさに「赤穂浪士」だらけ。

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駅舎からして櫓風。

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駅構内には「忠臣蔵」を大書。

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階段には四十七士の錦絵パネル

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駅前には当然大石蔵之助の像が。

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四十七士のパネルも。

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郵便局にすら

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絵本も忠臣蔵。なぜか四十七士は黒猫に。

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 もはやなんでもありですね。

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 こちらは赤穂市立歴史資料館。蔵が立ち並んでいるような派手な外観が特徴で、1Fが赤穂の名物だった塩田に関する展示。2Fが赤穂義士を中心とする展示となっています。

 1Fは赤穂伝統の入浜式塩田についてパネル解説していますが、塩田の専門用語を多用しているためパネルだけ見ても何がなんだかさっぱり判りません。5分くらいの解説ビデオを見てようやくパネルの言わんとするところが判る次第。海水を天日で乾かして砂についた塩の結晶を集めるのが塩田ですが、海水をいちいち人力で砂に撒いていては膨大な労力がかかってしまいます。そこで入浜式塩田では塩の干満を利用して塩田に海水を自在に導きいれるように工夫したというのがポイントだと思うのですが。

 2Fでは赤穂藩の歴史についても少し触れていますが、やはり赤穂は浅野家あっての赤穂。実際は浅野家お取りつぶしの後に入府した森家の治世のほうがはるかに長いのですが、赤穂にとって森家は事実上「なかった」ことになっているような・・・ また浅野時代ですら赤穂藩はたかだか5万石の小藩に過ぎなかったのですが、森時代にはさらに2万石まで減らされてしまい、城の修理にも苦労する有様で浅野時代の城下町を維持できなくなったとか。このあたりの事情も「浅野家は良かった」という心情に結びついているのかも。

 なお博物館では「赤穂浪士」ではなく「赤穂義士」という名で統一されています。

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2008.02.15

山陽路(1)

ども、浦和の旅人(笑)、紅い雪だるまです。

移動距離、コストとも某旅人に全く太刀打ちできませんが、オフシーズンはこの手のシリーズが延々と続きます。まぁスポーツ紙のコピペで済ませるよりは遥かにマシなので、ご愛読者の諸兄におかれましては今しばらくお付き合い願います。

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 赤穂城跡には大昔にも一度来たことがあって、大石神社以外とりたてて何も見どころはなかったと薄らぼんやりとながら記憶していましたが、ここ10年ほどの間に城跡に建っていた学校等を移転させ、城の発掘調査・復元が進められ、趣を新たにしているとの話を聞いて再訪してみました。

なお上写真は大石神社で見かけたもの。

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 赤穂城は本丸と二の丸が同心円を描き、三の丸がその外に張り出しています。射撃戦を想定して城壁から十字砲火を浴びせやすいように、鈍角の凸凹を随所に配した複雑な形状をしています。

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 また現在は埋め立てが進んでただの平城のように見えますが、往時は海に突き出していた模様。

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 三の丸大手門脇を固める大手隅櫓。赤穂城には天守がないので、観光写真等では赤穂城の象徴としてこの隅櫓を写しているものが多いようです。

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 三の丸にはわずかながら武家屋敷跡が残っています。その一つが大石邸長屋門。

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 三の丸に建つ大石神社。いうまでもなく大石内蔵助以下四十七士を祀ったものです。但し四十七士は江戸期にはあくまでも罪人だったためか神社の創建は極めて新しく、大正になってからとのこと。

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 まだ初詣客が見込める時期なのか、境内は初詣モードのまま。厄除けの祝詞を上げてもらっている方が結構いらっしゃいます。でも「かしこみ、かしこみ」と祝詞を大音量スピーカーでで周囲に垂れ流すのはいかがなものかと。

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二の丸は現在庭園を復元工事中。これが完成するとまた違った趣になることでしょう。

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 96年に復元された本丸門。明治時代の古写真をもとに、古絵図をはじめとする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩による枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって復元したとのこと(参考

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 本丸には御殿が建っていたのですが、本丸御殿はその間取りを平面復元するに留まっています。

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 本丸には天守台が残っていますが、ついに天守が上がることはありませんでした。途中で金がなくなったのでしょうか?忠臣蔵では赤穂藩はとにかく金がないために吉良へ十分な付届けができず、浅野内匠頭は吉良に嫌がらせを受ける羽目になったとの話が出てきますが、こんな中途半端なもの建てているからじゃね?という感も。

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 また本丸の隅にも櫓が一つあがっただけで、その他は枡形を作ったのみ。これも予算不足ゆえか。

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 天守台上から見た池泉。

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 二の丸にある山鹿素行の像。軍学者として高名なためか、この城が「山鹿ブランド」であることをしきりに強調されるきらいがありますが、赤穂城の縄張りを作ったのは近藤正純氏。山鹿素行は途中で二の丸城郭にアドバイスを入れただけで、あんまり山鹿素行を持ち上げるのもどうかと・・・ なお赤穂城築城は太平の世になってからの話。当然ながら幕府の許可を得ての築城ですが、外様大名にも関わらず築城許可が出た例はそれほど多くはないようです。

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2008.02.14

幻の長崎遠征(10・了)

幻の長崎遠征(9)から続く

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佐世保駅は01年に高架化されてから初めての探訪。3連続アーチのド派手なゲートデザインが目を惹きます。

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 佐世保は長崎県第2の都市ながら長崎市と比べると見所に欠け、「ハウステンボスに来たついでにちょっと立ち寄ってみるか?」ぐらいの位置づけでしかありません。「大和ミュージアム」で活気付く呉と同じく日本有数の軍港なのですが、それを売り物にした観光振興を図るでもなく(格下の軍港のはずの舞鶴と比べてもかなり寂しい)、結局佐世保といえば「佐世保バーガー」に留まっているように思われます。

 で、佐世保駅に大々的に掲げられている「佐世保バーガー」。

 どう見てもやなせたかし氏のデザインだなと思ったら案の定。やなせたかし氏はあんまり仕事選ばないようですなぁ・・・

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 コマも佐世保名物。

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佐世保は長崎と同じく、港の周囲をぐるりと山が取り囲んだような地形で平地が少ないのが難。車という車が駅から市街中心部へと延びる幹線道路に集まってくるようで、朝夕の渋滞が凄まじそう・・・

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 佐世保で目立つのが長大なアーケード街。しかも地方都市では珍しいことにアーケード街が活気を保っています。

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 佐世保では海上自衛隊以上に米軍基地が大きな顔をしています。米軍基地の入り口にはクリスマスの飾り物も。

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 呉の「大和ミュージアム」と比べると甚だ知名度に乏しいのが難ですが、佐世保にも海軍関連の観光施設として「セイルタワー」があります。

 展望台を兼ねているのかエレベーターで一気に最上階へ。

 セイルタワーは旧帝国海軍~海上自衛隊の通史概説に力点を置いています。従って幕末の海軍創設と日清、日露戦争にそれぞれ1フロアを取っている反面、太平洋戦争も1フロアで意外にさらっと流されている感があります。また海上自衛隊に2フロアを割いて事実上そのPRを兼ねているようにも見受けられます。大和ミュージアムが呉海軍工廠の歴史とそこで生産された艦船・航空機に重点を置いており、また海自にはほとんど触れていないのとは対照的。歴史好きならそこそこ面白いかと思いますが、メカニックやテクノロジーが好きな方にはちょっと物足りないかもしれません。

 セイルタワーは海上自衛隊のPR活動を兼ねているためか、入場料無料でこれだけ楽しめるのは嬉しいといえば嬉しいのですが、軍事物に興味が薄い一般の方が見て面白いかとなるとちょっと首を傾げたくなるところも。呉と違って艦船・航空機等に関する現物がほとんど展示されておらず、パネルや模型での解説が主になっているのが観光客向けにはかなり辛い。もともと旧海軍に興味がある人じゃないとビジュアル的に惹き付けるものがないからねぇ・・・

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 おまけと言っては何ですが、旅の終わりに「長崎ちゃんぽん」にも触れておきましょう。ちゃんぽんって普段はあまり食べる機会がなく、大原へいったついでに産業道路沿いのリンガーハットで食べるのがせいぜいwなためか、長崎ではしょっちゅうちゃんぽんを食っていました。

 太麺で具だくさんで、すぐに腹一杯になってしまうちゃんぽんですが、スープが濃いながらも脂分は少ないせいか意外に胃にもたれることはありません。

 佐世保駅のガード下はちょっとした「ちゃんぽん横丁」と化していましたので、日を分けて2軒はしごしてみました。

 上写真は「香蘭」

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  続いて「香蘭」の向かいにある「大善」

 値段はいずれも650円。長崎の有名店でちゃんぽんを食べると下手をすれば千円近く取られますが、あれはいったい何なんでしょうね?

(了)

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2008.02.13

幻の長崎遠征(9)

幻の長崎遠征(8)から続く

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平戸の面白さはわずか90余年ですが国際貿易港として栄えたバタ臭い歴史を持つ一方、オランダ商館が出島に移って以降はさほど大きくはない城下町として歴史を積み重ねたため、狭い街の中で和洋が渾然一体となっているところでしょう。

ザビエル記念教会・光明寺・瑞雲寺の3つの寺院が重なる「寺院と教会の見える風景」は平戸の象徴としてつとに有名。

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平戸市中心街の西側高台に建つ「聖サンフランシスコ・ザビエル記念教会」。現在の教会堂は1931年4月に建てられたものですが、献堂40周年の1971年9月に、平戸にも三度にわたって布教に訪れた聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂のそばに建立され、これに伴い「聖サンフランシスコ・ザビエル記念教会(あるいは聖堂)」とも呼ばれるようになったとのこと。

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平戸の「和」を象徴するのが先に紹介した平戸城であり、もう一つが松浦史料博物館。旧平戸藩主松浦家と平戸の歴史に関する史料を収蔵した博物館ですが、もともと松浦氏が館を置いていた場所に建てられており、土台の石垣は往時のものがそのまま残っています。

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平戸が国際貿易港として栄えたのは、1550(天文19)年ポルトガル船の入港から、江戸時代の寛永18年(1641)に南蛮貿易港が長崎の出島に移されるまでのわずか90余年。

当初平戸で活躍していたポルトガルは、貿易と併せてキリスト教布教を目的としていたために次第に平戸の支配者とトラブルを起こすようになって退去。その後一時スペインやイギリスも平戸にやってきましたが、最終的に平戸で貿易の利を得たのはオランダでした。

オランダは時の平戸領主松浦鎮信の協力も得て波止場にオランダ商館を建設。周辺にはオランダ井戸、オランダ塀、灯台跡、埠頭など在時をしのぶ多くの遺跡をのこしています。平戸でのオランダ貿易額は後の出島をはるかに凌いでいたようですが、幕府の鎖国政策強化に伴いオランダ商館は長崎・出島への移転を命ぜられ、国際貿易港としての平戸の繁栄は終焉しました。

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 平戸が観光地として残念なのはオランダとの交易施設跡にはほとんど何も残っていないこと。長崎の出島も埋め立てられて長らく何もなかったのですが、昨今急速に復元が進んで続々商館が建っているのと比べるといかにも寂しい。

 ただ遅まきながら平戸の「オランダ商館」を復元する動きがあるようで、これが完成したら多少賑わいを取り戻せるかもしれません。

上写真は数少ない遺構の一つである「オランダ塀」。

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こちらは船着場。

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常灯の鼻。船が港に入るための目印として火が灯され、灯台のような役目を果たしていましたが、形状は純和風ですね。

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2008.02.12

幻の長崎遠征(8)

幻の長崎遠征(7)から続く

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 前日長崎県南部の島原一帯を回ったばかりですが、この日は一転して長崎県北部の平戸へ。渡っているのは平戸大橋。長崎県は県内の道路事情が悪く、佐世保から平戸まで1時間半近くもかかります。

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 城下町であると同時にかつてはオランダとの交易地だったという複雑な歴史的背景を持つ平戸。フェリー桟橋から海越しに見える小さな天守はちょっとした観光名所ですが、残念ながらこの天守はまさに観光施設でしかなく、平戸城に天守があったわけではないようです。

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平戸城への登り口は桟橋から模擬天守の建つ山を挟んで反対側。城の周囲は亀岡公園として一般に開放されていますが、その公園を見下ろすように乾櫓が建っています。

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 狸櫓。これが唯一現存する櫓で正式には「多門蔵」ですが、「櫓の下に狸が住みだし、修理のため床板を剥ぎ取ったところ、小姓に化けた狸が城主の寝所にやって来て「狸の一族を櫓に住まわせて頂ければ、末長く守護します」と嘆願したので、城主は早速床を元通りにしてやった」という逸話から狸櫓と呼ばれているとのこと。

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 もともとこの地を治めていた松浦鎮信(後の平戸藩初代藩主)は豊臣系大名として徳川家康に睨まれるのを恐れてか、平戸城の前身である「日の岳城」を自ら破却。その後松浦氏は平地に御館を設けて政務を執っていましたが、関が原から100年も後の1703年になって4代藩主鎮信が幕府の許しを得て平戸城を建設。しかしその際も幕府への遠慮があったのか、天守を建てることなく乾櫓をもって天守代用としていたとのこと。

平戸城の縄張りは山鹿流といわれていますが、どの辺りにその特色が出ているのかは残念ながら勉強不足で判らず。

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 模擬天守から見下ろす見奏櫓。櫓が平戸瀬戸を行き交う船舶を監視する役目を果たしているのがよく判ります。江戸中期になって築城が認められた例は非常に少ないのですが、平戸城が築城を認められた一因として東シナ海警備を挙げる向きもあるようです。

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2008.02.06

幻の長崎遠征(7)

幻の長崎遠征(6)から続く

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 島原からバスで山を登って雲仙温泉へ。バスを降りるといきなり硫黄臭が襲ってきます。

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 バスステーションの近くには温泉神社。 雲仙温泉の歴史は古く、開湯は701年(大宝元年)に行基によって温泉山満明寺が建立されたことに始まり、同時に四面神を祀る温泉神社も建立されたとされています。

また雲仙は明治~大正期にかけて外国人に避暑地として人気があったようです。首都圏や京阪神から遠く、しかも交通の便が良いとは言い難い雲仙に外国人が来るというのはやや不思議な感じがしますが、上海租界の外国人が長崎経由でやってきたようです。雲仙への外国人観光客誘致は貴重な外貨獲得手段として半ば国策化されていたとのこと。

時代は変わって、今の雲仙は韓国や台湾・中国からの観光客の姿が目立っています。

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 雲仙といえば地獄巡りが欠かせません。 那須湯本とか登別とか、硫黄分の多い温泉地には付き物の地獄巡り。まぁ規模の大小こそあれ、どこも似たようなものですが、ついついグルグル回ってしまいます。

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 散策路にはポツリポツリと売店が。主力商品は「湯の花」のようで、温泉玉子はついでに置いてあるという感じでした。

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雲仙温泉には共同浴場があります。こちらは「新湯」。

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 こちらは湯の里温泉。

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 なお新湯の近くには足湯もあります。

  平日の観光はどこも空いているのは結構なんですが、その代わりに観光スポットが休んでいることがあるのが困り物。この日は地ビール館が休み。風呂上りに一杯やろうと思っていたのにがっかりです(´・ω・`)ショボーン

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 路線バスで夕暮れ迫る雲仙をあとに。

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 随分若い時分の高木じゃね?という疑問はともかく・・・

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|-`).。oO 不愉快極まりない気分に・・・

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2008.02.05

幻の長崎遠征(6)

幻の長崎遠征(5)より続く

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 島原城の西側には武家屋敷が残っています。通り中央の水路は湧水が豊富な島原ならでは。島原市の観光ガイドによると

 島原城の築城のとき、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの住宅団地が建設されました。戦いのときには鉄砲を主力とする徒士(歩兵)部隊の住居であったので、鉄砲町とも呼ばれています。街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきました。

  島原城が竣工した1624(寛永元)年ごろ、藩主松倉氏は知行四万石で、鉄砲町も下の丁・中の丁・古丁の三筋だけでしたが、1669(寛文9)年松平忠房が知行七万石で入封してから、新たに上新丁・下新丁・新建の三筋が作られ、さらに幕末に江戸詰めの藩士が帰国することになって、最後に江戸丁が作られました。

とのこと。

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 山本邸。屋根が藁葺きなので、豪農の家と言われても判らないかも・・・

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 ただ単に邸内を公開するだけではなく、人形を置いて部屋が使われている様をビジュアルに判りやすくしようというのは良い試みです。書見の最中でしょうかね?

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 篠塚邸。当初、石垣や塀など無く、隣の家や庭が丸見えでまるで鉄砲の筒の中を覗いたかのように見えたために「鉄砲町」と呼ばれるようになったとの話もあるようですが、今は立派な生垣に囲まれています。

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 こちらは子弟を指導中でしょうか。

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 鳥田邸。山本家、篠塚家共々松平忠房が福知山から島原に移封された時に付き随ってようです。

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 これってどう見ても中村主水とその嫁・姑なんですが・・・

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 酒が不味そうだwww

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 公開されている武家屋敷は上記の三邸だけですが、それ以外にも武家屋敷風の邸宅がいくつもあってそれぞれごく普通に人々が暮らしています。従って武家屋敷の一角に軽自動車があったり、朝はゴミ袋が出ていて、ゴミを回収する車がやってきたりと結構普段着な街の姿を垣間見ることもできます。

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 湧水が豊富な島原、特に新町一帯の水路では鯉が泳いでいます。「鯉が泳ぐ街」としては他に津和野が有名ですが、津和野と違って島原はそれなりに地域一帯の中心都市として発展した街なので、鯉が泳ぐ姿に価値があります。

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 また近隣の雲仙温泉の影に隠れて知名度は皆無に等しいのですが、島原には温泉もあり、街の至るところに飲泉所があります。

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|-`).。oO でも「ガンバ寿司」はいただけませんなぁ・・・

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2008.02.04

幻の長崎遠征(5)

幻の長崎遠征(4)から続く

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 島原鉄道・島原駅改札を出るといきなり目に飛び込んでくる島原城。日本史上最大級の農民反乱である「島原の乱」との関わり合いを抜きには語れない悲しい過去を持つ城ですが、朝陽を浴びて島原の城下町に5層の天守が燦燦と輝いていました。

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 駅から城へ向けて緩やかな坂を登ると、見事な高石垣と塀・櫓、そしてそれを取り囲む水堀に驚かされます。島原藩はたかだか4万石の小藩。火山灰地で耕作に適さない地ゆえ実入りが少ないにも関わらず、そこにこれだけの規模を持った城郭を構え、さらに5層の天守までぶち上げるとなると、領民の負荷たるやさぞかし凄まじかったのでしょう。築城を命じた松倉重政・勝家父子に対して領民の怒りが爆発。キリシタン弾圧への反抗とも結びついて勃発したのが「島原の乱」。

なお一揆勢は一時島原城に迫ったものの、その守備は堅くて攻略ならず。結局原城に篭って幕府の大軍を迎え撃つことになりました。

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 本丸へ向かう道は駅とは反対側についていました。

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 天守に登って北側を臨んでみました。南から北へ本丸・二の丸(青灰色の建物)・三の丸(校舎や体育館などが建つ高校)と並んでいます。

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 二の丸と本丸は本来橋で結ばれていたのですが、その部分は復元されておらず、ちょっと間抜けな感じも。

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 城の西側には雲仙岳の一部をなす眉山。90年代前半の大噴火で生まれた平成新山がその後ろにちょっと顔を覗かせています。なお眉山は1792年に噴火に伴う山体崩壊を起こし、大量の土砂が島原に甚大な被害をもたらしたのみならず、その土砂が有明海になだれこんで対岸の熊本にも大津波を引き起こしました(いわゆる「島原大変肥後迷惑」)。

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 島原城天守の特徴は相似形の箱を積み上げたような「層塔式天守」であることと、破風が全くないこと。従って姫路城や大坂城、名古屋城あたりと比べると非常にすらっとした、無駄な装飾のないシンプルな感じがします。残念ながら往時の島原城の形状は正確には判っておらず、現在の天守は古図を参考に外観をアバウトに復元したものに留まっているようですが、上記の2つの特徴はどの古図にも共通するとのこと。

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2008.02.01

幻の長崎遠征(4)

幻の長崎遠征(3)から続く

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洋館風の外観が珍しい諫早駅。

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諫早は長崎・佐世保に続く長崎県第三の人口を擁する都市ですが、東西に長崎本線、北に大村線、南に島原鉄道と鉄路が十字に交わる要衝でもあります。

ローカル私鉄の島原鉄道は諫早駅の0番ホームから発車。ホームには「三本ヒゲ」が誇らしい老雄キハ2006が止まっていました。

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「三本ヒゲ」の前には島鉄色のキハ2018が連結。

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島原鉄道の南半分を占める島原外港~加津佐間は08年4月1日に廃止されることが決まっています。 従って行き先表示板や駅の時刻表で「加津佐」の文字を見るのは個人的にはこれが最後になります。

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島原駅に停車中のキハ2008。

 上記のキハ2006、キハ2018共々旧国鉄から譲り受けたオンボロ車両で、車内中央に管が張り出しているのが特徴です。旧国鉄で一般的だったディーゼルカーの色を模してか、こちらは朱一色に。

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 現在の島原鉄道の主力を成しているキハ2500形。94年から01年にかけて上記オンボロ車両を置き換えてきましたが、なおも残るオンボロ車両が朝夕の多客時には引っ張り出されてきて運用についているようです。

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  車体には「島原の子守唄」にちなんだイラスト大きく が描かれています。もっとも島原の子守唄の歌詞内容はイラストとは正反対にかなり陰惨なものですが・・・

 なお島原の子守唄の作詞・作曲者である宮崎康平氏は島原鉄道常務でもあり、かつ古代史研究家としても有名です。

  今回は100%鉄な話題になってしまいました。スマン

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2008.01.30

幻の長崎遠征(3)

幻の長崎遠征(2)から続く

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 あの駒場での惨敗さえなければ、俺達はここに来るはずでした・・・(つД`)

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 いかにも国体用に作った風の総合運動公園。諫早駅から山を一つ挟んだところにありますが、十二分に歩けるところ(浦和駅→駒場と似たような距離)にあります。道中コンビニやファミレスもあり、飲食に困るようなこともありません。

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 夕陽を浴びるメインスタンド。これまたいかにも国体然とした、ふた昔くらいの素寒貧なスタジアムです。誰もいないかと思ったらさにあらず、高校生が周囲で練習していました。

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 特に遮るものはない(といってもさすがに中へは入れませんが)のでスタジアム内を覗いてみました。さすがJ1規格を満たすだけのことはあって、ご立派なものです。ただぱっと見たところスタジアム内に売店スペースが少ない感じでした。

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 とはいってもサイドスタンドがありません。西京極のようにアウェー側が半欠けだとか、桃太郎や博多の森のように形ばかりのサイドスタンドというのは目にしましたが、「全くない」というのはJ1規格のスタジアムでは初めて見ました。

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 本当は俺達が押し込められるはずだった自由席。バックスタンドの両端は手すりのみの立ち見席でした。前のほうは高さがなくて観戦には不適当です。

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 俺達が並ぶはずだったゲート。

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 手すりの塗装がはげてボロボロなのはうぃあーの仕業ではありません。

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 日没が迫ってきましたのでボチボチ撤収。メインスタンドは高さも十分。これならバックスタンドと料金差をつけるのは納得が行きます。

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P.S.

 公園近くの売店でとんでもないものを見かけました・・・

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2008.01.29

幻の長崎遠征(2)

幻の長崎遠征(1)から続く

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 「葉隠」で有名な鍋島氏の城下町佐賀。っちゅーても葉隠自体を知らん方が急速に増えているでしょうなぁ・・・ 現在の佐賀県と長崎県の一部にまたがる35万7千石の大藩だったのでさぞかしご立派な城が建っているのだろうと期待して出かけると、城跡はものの見事に公共施設で埋め尽くされ、水堀が若干残っている他はわずかに鯱の門(上写真)が現存するのみ。明治時代初期に起こった佐賀の乱により大半の建造物は焼失してしまったので致し方ないといってしまえばそれまでですが。

 かつては幾重にも外堀を巡らし、城が攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていて、「沈み城」とも呼ばれたそうですが、今となっては相当妄想を働かせないと往時を偲ぶことはできません。

 但し、唯一残った鯱の門は横矢を射掛ける続櫓を従え、なかなか威圧感があります。

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 門の脇にアームストロング砲が展示されていました。アームストロング砲は幕末戦乱時の最新式の大砲で、佐賀藩がこの砲で彰義隊を撃滅。端的にいえばアームストロング砲を佐賀藩が持っていたことで「薩長土肥」の「肥」に名を連ねることができたようなものです。もうちょっと砲身が長いものと思っていたですが、外見は幕末物ドラマに出てくる大砲と大差ありません。

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 雄藩の一つであった佐賀藩の名残が鯱の門だけではあまりにも寂しいと思ったのかどうか定かではありませんが、本丸に建っていた学校を移転させて、その跡に「本丸御殿」を再建したのは快挙といっていいでしょう。再建にあたっては発掘調査で確認された棟割・部屋割と古図、写真等が利用されたとのこと。

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 御殿内は佐賀藩の歴史を紹介する資料館として活用されています。もっともただ畳を敷き詰めただけの部屋も多々あって、JAFCに「時代劇をやれ!」とばかり誘っているようでもあり・・・

 なお「本丸御殿」は一定の入場料を取るのではなく、満足度に応じて寸志を置いてゆくという「チップ制」を採用しています。

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 佐賀城にはかつて1611年(慶長16年)に鍋島勝茂がいったん五重の天守を完成させたものの、1726年(享保11年)に大火で焼失。以来再建されず、今は天守台だけが残っています。

 なお本丸御殿も同時期に焼失。その後二の丸に御殿完成(1728年)→火災で焼失(1835年)→本丸御殿再建(1838年)→解体(1920年)という歴史を辿っています。

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 博多・久留米の「とんこつラーメン文化圏」と長崎の「ちゃんぽん文化圏」に挟まれて些か影の薄い佐賀のラーメン。とはいえ、福岡の強い影響下にある佐賀のことですからそれなりに旨いラーメン屋もあるだろうと思って出掛けてみました。

 佐賀城近くにある「一休軒本店」。いかにも老舗然とした店構えです。暖簾をくぐると店内は9割がた埋まっていて人気店の様子。L字型カウンターと奥にテーブルが2卓ほどといったさほど大きくもない店で、夫婦2人で切り盛りしていました。その後も三々五々お客さんがやってきます。早速ラーメンを注文。550円也。

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 いなり3個(200円)やおにぎり2個(200円)といったサイドメニューがある他、大盛(700円)との表示があるところからすると替え玉はやっていないのかもしれません。

 店内に充満するとんこつ臭に少々脳をやられながら、本格的な濃厚とんこつらーめんが出てくるものと期待して待っていたのですが・・・ ちょっとスープ薄くね?良く言えば雑味がないともいえますが・・・ 麺も柔らかめの仕上がりで好みとは外れ(硬めの注文はできるようです)。うーん、店の外観から期待感が高まったあとだけに少々がっかり感を抱いて店を後にしました。

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 佐賀城見物を一通り終えて佐賀駅へ戻る道すがら、小腹が空いたので偶然見かけたラーメン屋「かどや」に突入。「一休軒本店」とは対照的に、いかにも今風の小じゃれたラーメン屋です。コの字型カウンターがあるだけの小さな店ですが、食事の時間帯から遠く外れていたので店内は閑散。

 濃厚とんこつが売り物の模様。赤・白・黒と3種類ありましたが、赤を注文(550円)。店内の能書きによると「トウガラシ、コチュジャン、にんにく、ゴマ、鶏ガラで仕上げた」云々とありました。

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 麺は極細ながらコシがしっかり。麺を硬めにしてもらったこともあって好みどおりの出来に。スープも看板に違わない濃厚風味なのですが、とんこつの臭みはほとんどありません。この辺は東京ナイズされたとんこつラーメンとそっくり。旨いことは旨いのですが、なんかどこかで食ったような味。何に似ているのかなぁ・・・

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2008.01.28

幻の長崎遠征(1)

 駒場でJ2愛媛に不覚を喫して5回戦のチケットがパーになっただけではなく、特割で買っておいた飛行機代もパー。でもせっかく休みも確保したことだし、飛行機のキャンセル料もバカにならないので、悲しみを堪えて長崎までノコノコ出かけてきました。

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 もっともそうはいっても長崎市は2006年に行ったばかりなので、今般はその周辺をウロウロ。とりあえず長崎へ行く途中に佐賀へ立ち寄ってみました。

 佐賀といえば唯一無二の観光地が「吉野ヶ里公園」。福岡空港から佐賀行きの高速バスが一日一本だけ吉野ヶ里公園を経由するのでそれを利用。バスは公園東入口前に着きます。

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 吉野ヶ里には最寄の「吉野ヶ里公園駅」が出来たころに一度行ったことがあるのですが、発掘が進むにつれて公園の規模が拡大したようです。大人になって子供の頃遊んだ公園の狭さに驚くのはよくある話ですが、「こんなに広かったけ???」と驚くのはちょっと新鮮。

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 JAFCに「来い」と言わんばかりの企画も。たぶんじょうじさんが鳥栖戦のついでにここに来てくれることでしょう。

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 南内郭へ通じる門。冠木の上に鳥型の飾りがついています。

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 内郭は塀で囲まれているだけでは